【眼のなかの空地】

 貧しさは人を結びつけるほど優美ではない。そのことに気づいたのは十六歳のときで、家出をしていた。ありったけの貯金を下ろして、知らない町へと電車で 出ていった。
  夜の十時にターミナル駅、そこから普段乗ったことのない路線の上りで、出た。K湖駅で降り、さてどうしたものか、と今更ながらに困った。春のK湖畔周辺の 地方都市然とした駅前をうろつき回りつつ、自分の愚かさが情けなくてたまらなかった。ベンチに腰を下ろした。喧嘩の原因などつまらぬものだったのに。
  何本もの電車が背後を走り去っていった。ひどく疲れた気持ちで人影のない電車の窓をみていると、何のための電車なのだろう、と思った。ただ駅から降りてき たわずかばかりの人々と目が合ったりすると、ほんのりと明るい気持ちになれた。ジャージに適当な上着をひっかけただけのひどい格好。うろんげな目にも、奇 妙な嬉しさがあった。
 ぼんやりと座っていると、頭のなかがからっぽになっていくようで、とても気持ちがよかった。何にも考えずに、自分が空気に なってしまったような感触。快楽だった。湖畔の空気は澄み渡っていて、星がよく見えた。自分の小ささがたまらなく心地よかった。数時間が過ぎていた。ふい に、一人の男が話しかけてきた。
「家出?」
 金髪の優男で、中性的な顔立ちをしていた。細い身体つき。嗅いだことのない不思議な、油のようなにおい。とりあえずはエドウィンのジーンズと、どこの代 物かわからない色の染みだらけのシャツ。フランクな格好だけど、孤独の染みが、どことなく眼にあった。
「どうしてすぐにわかるの」
「格好と、思慮の浅そうな顔」
 笑って、
「来たいなら」
  左手が差し出された。右手はビール缶四つのコンビニ袋のために、左手は別の手のために。危険な気配にはあえて目をつむって、右手をだした。握られた。熱 い。まるで儀式みたいに、黙りながら住宅街へと歩いていく。誰かに見つかったら犯罪だったろうけれど、二人を見ていたのは星だけだった。
 桜並木が七分咲き程度の公園が途中にあって、その手前にこじんまりした団地があった。築数十年だろう。壁にひび割れの多いそこの非常用階段を、彼の手が 引くままに上っていく。三階。立ち止まってノック、
「ただいま」
  おっかーり、という脳天気な声が奥からした。女物の靴とスニーカーが無造作にまき散らされた玄関に、ぎこちない動きで靴を置く。奥のリビングまで。もう一 度、おっかーり。二十歳ぐらいだろうか。化粧が派手なのがかえって見苦しかったが、きれいな顔立ちだ。目は人形のようにぱっちりと見開かれ、すっと引かれ た口紅にはたばこ、血色のよい頬、長い黒髪は後ろにネットで適当にまとめてあって、それが丁度いい清潔感を与えていた。こちらを見るなり、
「ちょっと、この子なになに。ビールしか頼んでないよ」
「拾った」
「はあ?」
「家出中」
「あのさ、この子どう見ても中高生だよ。犯罪だろ」
  女がこちらをにらみつけるのを無視して、リビングのにおいを嗅いでいた。お酒の強い香りに混じって、あの一度嗅いだら忘れられない不思議な油のにおいが 漂っていた。リビングはダイニングと一つながりで、調理台には雑然と荷物が置かれたままだ。家具が、少なかった。テレビも、ラジオも、時計もない。ただ木 製の机と椅子だけがそこそこ広い部屋にぽつりと置いてあって、どことなく風通しの良さを思わせた。
 まるで夢のように、なにもなかった。
「余ってんじゃん」
「そういう問題じゃない。見つかったらどうすんだよ」
「置いとけ」
「アマゾンの買い物かよ」
  ため息をつきながらも、半分はもう男の奇行に諦めがついているのか、紅茶、飲む? 二人がビール缶と冷蔵庫のチーズ鱈を片手に口論、といっても男はほとん ど口を差し挟まずにこにこ笑って聞いているばかりだった。部屋とベッドも余っているらしい、それと第三者を許容する精神も。内心こんなばかげた幸運に巡り 会えたことが嬉しくてたまらなかった。あたたかな紅茶を飲み干した後の堅い寝床で、しばらくぶりの子供じみた幸福に、深く浸った。

 男は きつね、女はうぐいす。芸大と文学部。画家気取りと、主業居酒屋バイト。居酒屋のコンパで気が合ったのとお互いの金のなさから、そのままルームシェア。コ ンクリート張りの寝室が三つ。窓からよく桜の見えるリビングと、トイレ、バスルーム。親は高校にも警察にも連絡しなかったらしく、うぐいすの心配は外れ た。昼間は外出禁止、あと置いてやるからには家事、といううぐいすの言葉通りに働いた。電話でリクエストを承って、その通りの食事を用意。洗濯、掃除。き つねはなにを考えているか解らなかったが、うぐいすとは次第に気があってきた。服も何着か買ってきてもらった。ともに出かけることもほとんどない。二人は 本当にただの友人以上ではないのかもしれなかった。それでも気にはなったので聞いてみると、
「いや、あいつ、ホモだし」
 けらけらと。
 
 うぐいすは、そのうち可愛くなってきたのか、
「化粧、教えてやろうか」
 洗面していると突然そう話された。
「化粧ぜんぜんしてないんだね。もったいない」
 もったいないのはそっちだよ、というのは言わない。化粧を多少しすぎている気もしたが、それでもうぐいすは十分に美人だった。たばこをふかしていて、 蓮っぱな感じが心をくすぐったが、
「いいです」
「つまんね」
 本当に教えたかったらしい。彼女のように打ち解けるのが早い人間にはあまり会ったことがなかったので、単なる社交辞令と思ったのだ。悪いな、とその次の 日は彼女の好きな白身魚のフライを揚げた。化粧を教えてもらうのはパスしたが。

 あの油のにおいは、テレピン油だった。
  元々は物置だったのか、きつねの寝室兼アトリエには窓がなかった。その壁いっぱいに、自分の描いた小さめの人物画が大量にかけてある。いくらかはうぐいす のだ。裸女もいれば大儀な格好をしたのもいる。女性の肖像画の眼すべてがベッドのほうを向いている。眼のない絵はひとつもない。光線をたたえた、宝石のよ うな眼の群に、魅了された。あの油のいいにおいしいっそうした。ランプが、一つ。明かりはそれだけ。衣装箪笥と、画材、あとはベッドしかない単純な部屋。
「絵だらけですね」 
 うぐいすをモデルにして描いている途中だった。裸のうぐいすの全身が美しいのを横目で見ながら、ベットメイキング。
  返信なし。うぐいすは休憩中も沈黙。煙草もなし。裸体のラインはなめらかで、真珠から彫りだした彫像のよう。あまりにきれいな肌。小さくはないが気品ある 乳房。肌に浮いた汗の玉がわずかな光にちらちらと輝く。一挙動でその球体がころころと流れ落ちていって、薄闇の線を描く。こっちに関心を示さず、きつねは 黙々とデッサンを続けていく。
「さみしいから」
 出る際にそう言われた。絵だらけですね、の返答だと解ったのは、それから一時間ほど経ってから。あとで理由を聞いてみたが、答はなかった。

「直接で」
  桜ももう満開近く、三人で花見酒だと部屋で薄いビールを回していた。さすがに外で十六歳がお酒を飲んでいたらまずいというのがうぐいすの意見だったが、再 びのからすの発言で、決まった。深夜二時、ピクニック気分で酒といつものチーズ鱈と、うぐいすのブルーシート。これまたなぜか非常用階段で泥棒みたいに息 を潜め、そっと根本に広げる。星は浮いたまま。職務質問する警察官もいない。春の大気のまどろみのなかで、三人でぐびぐびやりながら、じっと星と桜を見て いた。落花も始まっていた。花びらが頬を伝って落ちていった。誰も喋らなくなる。花が散るのを見ていた。うぐいすの手を握ろうかと思ったが、やめた。

  きつねがホモなのがどうかはわからなかったが、あれだけの美形なのに部屋に女性を連れ込むことはなかった。一日中家にいてもほとんど退屈しなかった、きつ ねの絵を眺め、家具のないリビングでぼんやりしているだけで、春の一日は夢のように過ぎていく。あるときモデル中のうぐいすが、その日はくわえるように指 示されたたばこの煙を一吐きして、
「見てるだけじゃ、つまんないよ」
 断らさせたのは、恥じらいよりも得体の知れないおそれだった。彼女 の美しい体を見ていると、不思議な恐怖が沸き上がってきた。それが油のにおいと混ざりあって、魔術にかけられているみたいだった。それまではずっとベッド から観察していたのだが、つまらなそうな彼女を尻目に自室に逃げ出した。堅い寝台に身体を投げ出しても、しばらくは動悸が収まらなかった。

  うぐいすが週に二三度居酒屋のバイトに行くとき、家は自然と静かになる。そういうときもまた心地よかった。きつねはとにかく人物画しか描かない。彼女がい ないときも、あの暗いランプを頼りに人を招いて描き続けていた。好意も敵意も視線から受けたが、うぐいすほど関わった人間は一人もなかった。壁の眼は増え る。何個眼があるのか数えようともしたが、多すぎて途中であきらめた。

 いつも通りうぐいすをバイトに送り出したのち、新しいモデルさん がきた。マネキンのような人間味のないつまらない顔、そして魅力のないからだ。きつねは挨拶もせずに部屋に招いた。夕方のお茶を楽しみながら、食事の用意 に取りかかっていると、ふいに荒々しい物音がした。心臓が跳ね上がり、あの不思議な恐怖がまた染み出してきた。菜っぱと包丁を前に硬直していたが、やがて きつねの怒号といくつかの物音で、騒ぎは終わった。様子を見にいくと、シャツの胸元が開かれ、キャンパスは引き裂かれていた。自分でやったらしかった。荒 々しく息をつき、手負いの獣の目をしていた。シーツは荒れていた。
「たらい回しにされてた。家庭の事情」
 理由の返答だと、すぐにわかった。こじ開けられたシャツのボタンを一つずつ回収しながら、手で追い返された。
  あとでうぐいすに聞いてみると、母に捨てられたのだという。なまじ顔形が良かったから、たらい回しの過程でひどい目にもあった。だからあいつは女を信頼し てないんだよ。居酒屋から帰ってくるなり、うぐいすは煙草の煙をふかしていた。きつねは夕飯も食べずに寝てしまったので、余ってしまった菜っ葉の煮つけを 二人でつついていた。
「じゃあどうしてベッドが余ってるんですか」
「それを何とか直そうと、連れ込みまくってた時期もあったんだよ。あんたの寝てるベッドはそのときの忘れ物。治らなかったけど、寂しいんだろうね。信頼も できない。でも離れられもしない。だからあんたとかあたしみたいな男女と一緒だったりする」
 っ てことで、今は半ホモって感じだな。うぐいすの眼は濁っていて、考えが読めなかった。深夜、ベッドを、嗅いだ。念入りに洗ったシーツは何のにおいもしな い。うぐいすの身体の輪郭を思い出しながら、寝た。朝の五時にまた眼が覚めた。ダイニングで水を飲んでいると、満開の樹が青白く輝いていた。ガスバーナー の純粋な炎に似ていて、身体のなかの芯が熱くなった。なぜだか泣きそうになって眼を必死につぶった。こっそりとあの部屋の、扉を嗅いだ。油ではなく、煙草 だった。

 ひどい目の中身は解らない。だけれど、本当に言葉通りひどくはあったのだとおもう。彼は決して男の肖像を描かなかった。
「そういえば、煙草を吸いだしたきっかけ」
 晩食で、ひよこ豆のスープを飲んでいる最中に、
「ああ、それは親の影響。義母だけどね」
 シーザーサラダを女性とは思えない振る舞いでかっ込みながら、
「あ たしはきつねほどハードじゃないけどまあ似た事情で、叔母さんに預けられたんだ。すごいヘビースモーカーでね。高校生ぐらいのとき、叔母さんも病気で死ん じゃったんだけど、お葬式の間中同僚の人たちがずっとぷかぷかやっててね。あれを見てると無性に懐かしくなった。でも、身体に悪いでしょ。だからはじめは 我慢してたんだけど、遺品とか整理しているうちに潰れたままの煙草の箱を見つけちゃってね。病院に運ばれる前に吸いきれなかったんだね。やりきれなくなっ た。泣きはしなかったよ。悲しくはなかったから。自分のなかのなにかが空っぽになった感じ。気持ちよかったし、不安だった。そのままの空っぽに耐えきれな くて、それで煙草、吸ったんだ。煙が、肉になる気がした。泣けばいいのに、と思ったけど、煙を吸えば吸うほど、どんどん目は乾いていった」
「二人は似てるんだ」
 どうだろうね、とうぐいすは言葉を濁した。
 
  モデルをやりたい、と言い出したころには、桜はもう散り始めていた。はじめうぐいすは驚いたが、こちらが言い出した条件を聞いてますます驚いた。裸でお互 いの顔をじっと見て、抱きしめあうポーズをとる。きつねは、いいよ、とだけ言った。うぐいすははじめ抵抗こそしていたが、まあ、記念写真程度に、というと しぶしぶ応じた。カメラじゃない、と珍しい冗談を彼が飛ばした。二人でぎゅっと、抱きしめあう。胸の丘の形がとてもきれいなうぐいす、長身で輪郭の美しい うぐいす、それに比してこちらの身体はあまりに貧相だった。はじめは笑い顔の彼女も徐々に真剣になって、やがて調和ある沈黙が生まれた。そのあいだずっと 四本の腕で抱きしめあい、目だけはじっときつねにやった。うぐいすの目は宝石のよう、ざくろの種子のようにまどかできれい、やわらかい肉体、煙草のにおい の染みついた軽い肉の塊。そのきらびやかな一眼のなかの自分、その黒い目に映るあの瞳。汗をかく。休憩はなし。描画のスピードは早い。
「終わり」
 仕上がったら、とあの壁を指差して、二人は寝室を出ていった。
  空っぽのある人間は、ずるい。自分の空っぽのなさを、悟った。きつねの痩せた肉のないからだ、うぐいすの軽すぎるからだを考えて、ベッドのシーツに、顔を うずめた。息苦しかった。絵の具のにおい、油のにおい、煙草のにおい、昨日作ったグラタンのにおい、うぐいすのにおい、そして知り得ぬ時間のにおい、すべ てがそこに、染みついていた。

 ある朝は寝坊で、誰もいない。素性の知れぬ人間を一人にして部屋に置いておけるのを、二人の寛容さのせい にする時期はもう過ぎていた。カーテンを締め切ったリビングの灰皿には使えそうな吸い殻があった。火をつけてみようかと思ったが、やめた。リビングには昨 日のマーボー豆腐のにおいと、油と、煙草のにおい、この部屋を訪れた無数の人間のにおいが残っている。服を、たたもう、と思った。彼の寝室の前で、立ち尽 くしていた。空っぽな肉も、満ち足りた肉も、すべてにおいを残してこの部屋を去っていったのだ。満たされた自分は、まだここに少しばかりはいるのだろう。 部屋には入らなかった。リビングのカーテンを開くと、もう若葉が出つつある。
 昼にうぐいすから、そのすぐ後にきつねからの電話があった。二人と も授業だった。彼女和食で、彼中華。買い物袋に財布を放り込んで、両方納得できる献立を考えながらスーパーへ。いつのまにか、昼間の外出禁止令も忘れられ ていた。葉桜の若木の、根のうねりが目を引いた。暗闇で深々と噛みつき合い、外気を求めて身体をのばしながら、なお互いの空間から逃れられずにいる。そし てそのまま、すべての時間を束縛から逃れられぬまま、ゆくゆくは大地に取り込まれていく。
 ふいに、眼のなかの太陽が、歪んだ。


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