【宝物学第 一教場にて】

  まず、授業の眠たさは覚悟してもらおうか。この次の呪法学に比べれば、宝物学は退屈だ。人によっては考古学に合併せよというのもいるが、私もこの二つの学 問が一部重複しているのは重々承知している。また、宝物の呪法に侵されてしまった場合の治療法については、これも魔法医学にお任せすればいい。ならどうし て宝物学がわざわざ独立した学問として、しかもこんな無駄にだだっ広い教場が用意されているのかって? そりゃもちろん君、私の小銭稼ぎのためさ。
  さて、今年一年のカリキュラムで、宝物学の扱うテーマは次の四つ。一つ目、時代ごとの宝箱の変遷を説明できるようにする。二つ目、代表的な宝箱の呪法につ いて学ぶ――これに関しては魔法医学のサーペン教授、呪法学のフェルバーント教授にもお手伝いいただくつもりだ、つまり私は教場の隅っこで昼寝をする予定 ――三つ目、宝箱の出現関数をある程度まで解析できるようにする。四つ目、宝物のプロパティの鑑定法を習得する――これは魔法解析学の知識も一部必要だか ら、テキストを前もって読んでもらわんと困る。ただ、グレゴリー教授の授業は聴かんでいいよ。あれは私が学生だった頃から同じさ、自分の教科書を読んでは 生徒に反復させるだけの、歴史上最低の授業の一つさ。試験は楽勝。出るところは先輩に全部聞け。問題は毎年変えてない。所々古い単語を使ってるから、現代 語に毒されきった君らが理解できない箇所もあるだろうが、そこは字引とデートを決め込んでくれ。
  さあさあ、さっそく船を漕ぎ始めた学生諸君も出始めたな。なるほど私もこのグラゴル中央魔術アカデミーにいた時分はそうだった。その頃は私よりさらにつま らない人間が教授をやっていてね、そりゃあ講義といってもひどいもんだった。延々自分の昔話しかしない。宝物学というのは大学の魔法学をいくつか嗜んでい たら素人同然でも教えられるから、ひどいところだと冒険家上がりのゴロツキが教鞭をとっていてね。もっとも、それを言ってしまうとこのアカデミーだってひ どいもんだがね! あのグレゴリー教授は、王立解析研究所で上司に背いたばっかりに飛ばされた、社会性のないひどいやつさ。ところが私も同じ穴のむじな さ。冒険稼業もちょっとばかしやっていたからね。さあ、ちょっと昔話をしようじゃないか。何、第一回目の授業要目はイントロダクション、とちゃんと書いて あるだろう? 真面目なばかりの学生諸君はさっそく教科書を山ほど鞄に詰め込んでくれているが、そんなもの必要だなんて要目に一文字も書いてないぞ? さ あ、荷物を全部戻して――ただ、暇ならノートに落書きでもして時間をつぶすか、寝ていてくれればいい。これは若き冒険家件宝物学者の、ちょっとした冒険譚 さ。もちろん、宝物学の重要性を、それとなく教えることも出来るが、私はサーペンやエグバードがやっているような、いかにも格調高いスピーチは出来ないの でね、品の無さはご理解いただきたいな。

  ここから南に六十ディストぐらい行ったところ、そう馬で七時間ぐらいだね、小さな漁村がある。ずいぶんひなびた場所だが、細々と暮らす人々が今でもいる。 アルゲーリャ海の豊かな幸に恵まれ、一日中南洋の輝かしき太陽とお付き合いできる、素敵な田舎さ。知っている人もいるかもしれないね、あそこは宝の村、と 呼ばれている。センスのない二つ名だが、実は私がこの名に関わっていると、そこまで知っている人はいるかな? ……さあ、話し甲斐がありそうだ。去年は話 の全貌を知っているやつが一人いてね、話す前から随分つまらない思いをさせられたもんさ。
  まず第一の主人公は私じゃない。一人のたくましい、村の漁師兼冒険家さ。かつては王城で騎士もやっていて、そこから漁師になったという変わり種の海の民。 肉体はたくましき赤銅、心は鋼の勇気と優しき心、そして忘れちゃいけない無鉄砲、世界のすべてを飲み込まんとする好奇心。さあ、冒険家に理想の条件は全部 揃っている。漁の季節には立派な一漁師を気取っているが、それもシーズンが終わるまでの仮の姿。船の出せない季節になったら冒険家のお目覚めさ。妻と息子 をさしおいて、すたこらさっさと遺跡に森に火山に砂漠に大旅行。きっとロマンスもあったろう。手紙は出さない。漁の始まる寸前にしこたま金貨を持ち帰るだ けに、妻も強いことは言えない。しかしここが不思議なんだが、実に仲の良い夫婦だったそうだ。男は豪快女は優しさ、常に男の帰る場所は彼女の家だった。妻 も心配はしていたが、その実どこかで安心はしていたんだろうね、彼だけは大丈夫、だってどこに出しても恥ずかしくない偉丈夫なんだから、とね。息子はとい えば、壮健な父親に憧れ、父親もまた息子を愛した。それは血や肉のつながりを超えた、魂で結びつけられたような関係だったという。お互いに、似通ったとこ ろがあったのだろう。
  さあそんな冒険家、ある年ヴェリエール地方に旅立った。もう歴史学はやった? それとも受験勉強の名残で覚えてるかな? ヴェリエールの血腥い歴史はみん な知ってるみたいだね? そう、犬と人の血で赤く染め上げられた大地ヴェリエール。古来から戦の絶えなかった呪われた大地。呪法の研究が盛んで、今でも遺 跡の宝箱なんかに簡単に手を出して命を落とす輩も少なくない、宝物学者や呪法学者にとっては天敵でも恋人でもあるあの場所。多少の自惚れもあったんだろ う。地元民の止めるのも聞かずに、一番危険と評判の遺跡に単身突っ込んでいった。そこで開けちゃったんだね、あの呪いの宝箱を。後で尋ねたところでは、男 はその宝箱を開けた瞬間、幻を見たのだという。自分の体内が少しずつ黄金になり、しまいには死に至るまでの、その長い長い日々すべての幻を、ね。まあ、金 だったら良かったんだけど、男の場合はもっと厄介だった。これは追々解るだろうがね。
  これはまずい、と経験豊かな男はすぐに悟り、ヴェリエールを出てこのグラゴルの名医にかかったわけさ。つまりは大学病院の熟練のボンクラどもにね。何の兆 候も出てないのにはい呪いです、と言い出す患者に、研修医どもが太刀打ちできるわけもない。それでもプライドだけは一人前さ、そこで適当な薬を処方して、 医師としての権威を十分に保ったわけさ。何だかでたらめな、一つとしてケースの知られていない呪いの名前を持ち出してね――後々これが大問題になったの は、医療史に詳しい学生なら知っているんじゃないかな? そう、君が言いたそうな顔をしている通りさ。あのベルドゥール医療事件の被害者さ。
  おっと名前が出ちまった、男――ベルドゥールは、とりあえず薬をもらったものの、村に帰ることはなかった。だって冒険の季節はまだ終わりじゃない。これを 逃したらまた半年近く退屈で手ごわい海と勝負さ――ちょうど君らでいうテストみたいなもんさね。男はロマンスと情熱に浸り続けた――どこかで恐怖を抱えな がら。薬なんて所詮熱さましか解毒剤の高級なもの程度だから、利くわけがない。いよいよ男の身体に異変が訪れたときには、すでに手遅れだったわけだ――そ れは春、漁の始まる季節だった。いつも通り男は装飾品と玩具と花と干し肉と金貨とを、それこそ王様のご褒美のように、掘立小屋の妻子に分け与えた。厳粛な 儀式が執り行われるなか、突如男がうめき声を立てて倒れた。妻子はそれはもう真っ青さ! すぐに魔法医を呼んだが、どっこい田舎の村だぜ? まともな医者 なんて忙しくて行きたくても行けないさ。妻は重たい男の体を馬に乗せ、われらがアルディールの首都グラゴルにまでわざわざ出て行った。男はもううわ言を 言ったり、時折死者のように深い呼吸をするもんだから妻も気が気じゃない。無学な嫁さんが知っている確かな病院なんて一つしかない――そう、誇り高きグラ ゴル中央魔術アカデミー付属病院の先生方に、再診を希望したのさ。研修医たちは真っ青になった! まさか自分たちのでたらめな処方がこんなことになると は! せいぜい酔っぱらいの幻覚ぐらいに考えてたんだろうね、いよいよ本物のお医者さんたちまでが総動員さ。さて分析してみると、男の臓器の一部で、石灰 化らしき兆候が見られた――ところがこれは言葉がおかしい。実は男の臓器は、黄金化していたわけだ。妻の話や以前のカルテから、ようやくここで呪法学者と 宝物学者が呼ばれた――ここで呼ばれた新星おふざけ学者が、何を隠そうこの私、ロベルト・S・クラフトさ。その頃は助手でね、教授にこきつかわれる日々 だった。合間には冒険の日々。前任の教授というのがふざけたやつでね。そんな冒険家上がりなんて助手に任せて自分は論文だけ書いときゃいいと、こういう魂 胆さ。まあ、それでこの奇妙な物語の一端に触れられたのだから、むしろ感謝すべきなのかもしれないがね。
  誰もが言った――奥さん、ご愁傷様ですが、例のあれさ。やっこさんら、論文が人生だろう? 呪いを調べもせずにそう告げた、もっとも手遅れだったのは事実 だったんだが。無学だが誠実な嫁さんは涙を浮かべながら、病院の暗い廊下で頭を下げたのさ。もしその場に私が立ち寄っていたら、とてもじゃないが見ていら れなかったろうね。女は帰った、行きよりもいっそう重くなった、意識のない男の肉体を抱えて。ここで魔法医と呪法学者の仕事は終わりだった。が、若かりし 私は自分にもう一つ仕事を付け加えた。つまり、宝物学者という中途半端な位置にある学者として、何か手伝えることはないかと、厄介にして善良な意思が目覚 めてしまったわけだ。同時に冒険者としての好奇心もね。教授の手伝いも全部放り出し、私は奥さんの言葉からヴェリエールのどの遺跡か調べ、そしてついにそ の宝箱に出会った。
  さてここからは少し勉強といこう。宝箱に呪法がかけられている場合、実は痕跡を追えばその呪いの数式なりプログラムなりの断片が得られるんだね。だが数式 といっても歴史的な変遷があって、みなさんも暗記に苦労されているようにその宝箱の年代ごとに用いる解析関数が異なってくる。諸君らが勉強するのはこの年 代の判別なんだね、まったく地味な知識ではあるけれど。宝箱は随分物珍しかったが、当時は勉強熱心だった私の記憶のある時代のものと合致した。それできっ ちり解析も自力で行えた――いくつかの断片を持ち帰り、まだ髪の毛の豊かだったころのグレゴリーに超特急でやらせた。これは随分高くついたよ! 後で何回 おごらされたことか、今でも思い出すと腹が立つが、しかしそこは解析研究所のエリートさ、三日四日ですぐに呪法の招待はわかった。 
  宝箱病という呪いだった。これは世にも恐ろしい呪法の一つで、初めは内臓の一部が縮こまりながら文字通り黄金になっていく。そうして巨大な金塊のドームが 生まれる。最初は意識が昏睡しているが、呪法が完成に近づくにつれて頭が明瞭になっていく。つまり、自分の身体の歪み痛みすべてがはっきりとわかるように なる。次に手足が丸まり、顔の生えた団子のような形状に人体が変化していく。団子から箱へ少しずつ角ばっていき、さあ最後は顔の部分、鼻は鍵穴で口がもち ろん開け口さ。その頃にはもう立派な一人前の宝箱だ。呪いをかけられた人間は、ところがここが怖いんだ! 口と舌を失い、もはや言葉を発せず生きているか どうかも曖昧、息もできないのに確かに生きている! おまけに永遠の命という素敵な保障付き。ヴェリエールのほうにフィールドワークで行ったら、生命反応 のある怪しい宝箱が一杯ある。それを見たら、ちょっとお祈りぐらいはしてやるんだな。もっとも絶対に開けちゃいけないよ! 同じように宝箱病にかかるから ね。これだけ怖い呪いなんだが、効果的な治療法はまだ見つかってなくてね。宝箱病のなれのはては、みんな叩き壊してしまうか沼に沈めてしまうのがヴェリ エールの伝統さ。それでもまだまだ処分しきれてないから、貴重なケーススタディが一杯残ってるわけなんだが。
  私はこの事実を奥さんに告げようかどうか、迷った。あの村に行けば、今はきっと意識の鮮明となった男と話せるだろう。はたしてそんな辛い場に自分が立ち 会ってよいものか、このまま奇病に侵されて死んだと思わせたほうが良いのではないか――だが、感染の可能性がある以上、遺体、いや宝箱を処分させる他はな かった。その旨を伝えんと、私は一人かの漁村に馬を走らせたわけだ。
  今でも覚えている、太陽の美しい村だった。白亜の木で作られた、みすぼらしいがどこか優しげな建物の数々が、貝殻のように光を受けて輝いている。潮騒の音 鳥の歌、市場に滲んだ潮のにおい。南洋の村というのは、旅行にはいい。そんな素晴らしい情景の隅で、男の苦悶の呻きが確かに響き渡っていた。村人たちはみ な彼とその家族に配慮し、極力静かに生活をしていたから、普段の賑やかさもその月ばかりは嘘のようだった。私が夫婦に真実を告げたとき、女は泣いた。男は 笑った。宝物に憑かれた人間が、最後に宝物になっちまうなんて、面白いじゃありませんか、先生。その言葉に女はいっそう泣いた。私は見ていられなかった。 処分の必要性については、そのときは口を閉ざし、男の呪いが完成してから告げることに決めた。宿をとり、私は毎日ベルドゥールの世話を見続けた。さあ、何 でそこまでしたんだろうね――きっと一つには、奥さんが美人だったからさ。子供たちも随分性質のよい子らだった。呪いというのは、魔法でも一番性の悪いも のの一つさ。奥さんとも仲が良くなった、もちろん男には配慮して、友人どまりだったがね。男の病状は確実に進行していった。やがて手足が曲がり、球体に顔 の生えただけの、不気味な有様となった。そんな男を女は痛みを沈めんと毎日両腕に抱きしめ、人目も気にせずに接吻を行う。何か美しい景色があれば、黄金の 詰まった腹の重たい彼を連れて見せてやる。実に良い奥さんだったよ。そんな折には、まさかのときに備えてついていかざるを得なかったが、あれは心苦しかっ たね。せめて最後の時間ぐらい、家族だけで過ごさせてやりたかった。
  ある昼さがり、丁度奥さんがおつかいか何かで出かけていった折だ。特別製の痛みどめの薬を作っていると「先生目は見えるようになるんですか」と聞いてき た。ベルドゥールは地元でも鐘割れ声で有名だったのに、まさかと思えるほどのか細い声だ。私は言った、見えません、と。先生耳は。聞こえません、と。それ じゃあ心は。心だけは残ります、ただ心だけは永遠に生き残ります。そうかあ、と男は笑いながら言った。あの笑いを、一生私は忘れんね。子供のような、老人 のような、生きているのか死んでいるのかもわからない、それでいてどちらの極も強く匂わせた、怖い笑いだった。男は妻のいない間、さまざまな冒険譚を聞か せてくれた。破廉恥なのもあった。勇ましいのもあった。一人の男の歴史すべてが、そこにあった。私は時に息苦しくなり、男の語り全てを受ける資格がはたし て自分にあるのか解らなくなった。本当は奥さんに聞かせてやるべきなんじゃないのかと思ったが、彼は決して妻には物語ることはなかった。彼なりの配慮だっ たのかもしれない。奥さんは幾度となく、自分が冒険を止めればこんなことにはならなかった、と私に嘆いていたものだしね。彼のいないところでの告白だった が、それは向こうもそれとなく悟っていたんじゃなかろうか。
  男の身体は次第に角ばっていった。腕と手は鉄に。宝箱お決まりのフォルムに近づいていくわけだ。とうとう箱状になるかならんかの日、彼は妻に外に出るよう にいった。私と話がしたいのだという。「先生自分のなかにものを入れることは出来ますか」私は頷いた。「それじゃあ自分が今まで集めてきたやつで、女房の じゃないのを全部ここにいれておいてください」理由をきくと、あのまま宝物をすべて置いておいたら、なんだかお天道様や、あれを作ってくれた人間みんなに 無責任な気がするもんでね。なあに、大した遺産じゃありませんや。それに、値打ものは全部女房にやっているんですから、安心してください。しかし二人に内 緒で調べたところ、グラゴルのオークションにでも出せば随分高く売れそうな代物ばかりだった。アルディールの品だけじゃない、中にはエルデタの刀剣や、古 い精霊の木像などもあった。私は法律家ではないので、これは奥さんとよくよく相談した。私と子供たちだけではそうお金もいらないし、あの人からもらったの ですでに随分蓄えがあるから、とのことだった。そこで、私はベルドゥールの口に一つずつ、宝物を入れていった。意識があるというのはなんと残酷なことだ!  わずかに肉として生き残っている内臓が、挿入のたびにぶるぶると震え、必死で異物を出さんとする。しかし内臓が完全に黄金になってしまったら、もう入れ ようがない。口元を黄金で蓋してしまうからね。男は呻きながら、笑顔でわずかな胃液と唾を吐き続けた。もう血は流れなかった。彼の唇も私の手も汚れに汚れ たが、それでも彼に言われた分の宝物はすべて収められた。宝箱というのは不思議なもので、どれだけ大きいものを入れようとしても、いつかは入ってしまう。 一種の空間歪曲でも働いているのかしらんと思いながら、私は宝箱を一つずつ入れていった。先生ありがとう先生ありがとうと入れるたびに言われるのは、つら かった。勘弁してくれとも思ったが、一度引き受けた仕事ではあった。宝箱を全て入れきったあとにこう言った、先生自分の指輪も入れてください、もう大分硬 くなっちまってるから取るのは大変だろうが……。高価な宝物とは打って変わって、卑金属の指輪だった。奥さんと同じものだった。苦労して太く鋭い指から取 り外したはいいものの、さすがにこれはと躊躇った。いいんです先生、といった。男は、口を、開いた。私は目をつむって、入れた。男の体内から、金属同士の 打ちつけ合う音が一つ、した。女もだいぶ諦めがついたらしかったので、私は宝箱病の遺体の処理について告げた。女はただ、頷いた。ただ指輪の話をすると、 女は泣いた。私は絶対に捨てない、絶対に捨てない、といった。男は女を愛していた、だからこそ指輪を飲み込んだ。それは女にもわかっていた。それでも女に は、指輪を付けたまま死んでほしかった。
 ―― さあ、この残酷な話もそろそろ終わりだ。いよいよ男が宝箱になる日がきた。子供と妻は涙を流すこともなく、次第に金属となっていく顔をただぼんやりと悲し げに見下ろしているだけだった。もう流す涙もなかった。男は死の床のなかで、あの笑いをにこにことしていた。目を伏せている私に、ふいに男の最後の言葉 が、聞こえた。おまえ、フー。こんなことになって悪かった。お前らが一生食っていくだけの金はある。フー、よう勉強しろ。勉強せんとこういう死に方をする ことになる。父ちゃんにはなるなよ。愛してるよ。父ちゃんの一番の宝物さ。おまえには悪いことをしたな。許しとくれ。子供たちのことを頼んだぞ。幸せに なってくれ。ありふれた辞世の句ではあったが、その言い方に心を打つものがあった。……ああ先生。なにか見える。目が見えなくなるってのは嘘じゃないか先 生……。海だ。海が見える……宝箱がたくさん沈んだ海だ。なんて静かな海だ……宝物が一杯眠ってる……あれを取りにいったらさぞ楽しいだろう……あっちに は山だ。遺跡と古城……宝物の山……ああ……宝箱なんだな、俺が見てる世界全部が、宝物だ……。男の金の眼が、音をたてて、落ちた。口が、閉じる。女はそ れを白の布でとって、大事そうに、化粧箪笥の一番奥に入れていた。私が家を出ると、細い泣き声が三つ、聞こえた。二人分を超えた、なにか巨大なもののうめ き声だった。私はそれは、海の声だと思った。
 宝箱はそれから、男の一番嫌いだった 海に捨てられたのだという。だが私は、はたしてベルドゥールが本当に海を嫌がっていたか、それは分らないと思う。何故って? 海こそ巨大な宝箱さ、もし彼 の言う通り、世界が巨大な宝物であるならば。

  次に私が直接一家を訪れたのは六年後だ。その頃には私も多少政治手腕を心得て、助教授に上り詰めていた。一家に金銭的な支援を申し出たが、奥さんはやはり 貯蓄があるからの一点張りだった。あれから宝箱は、海の深くに沈めたのだという。宝箱病が完成した際に、自分の望む夢を見たという症例は初めてだった。報 告しようと思ったが、やめた。嘘かもしれなかったからだ。フーのことでちょっと相談がある、と手紙で聞かされたわたしは、再びあの村を訪れた。女は喪服 だったが、それが独り身の哀愁によく映えていた。素朴な美貌は変わらぬままで、フーは随分と大きくなり、壮健な肉体を持つ、一人前の赤毛の若者だ。
  宝を愛した男に、と岬の墓碑にはあった。相談を受ける前に、私はフーと花束を墓前に捧げた。黙祷をすましたのち、私は父のような旅人になる気はあるか、と 尋ねた。辞世の句を裏切るわけにはいかないから、とフーは苦笑いした。だが、君は、あのベルドゥールの血脈を継いでいるんだろう? フーは笑った。口元ま でが父親そっくりだった、肉体の頑健さだけでなく。ただその眼には、父とは違う、中性的な柔和さがあった。先生が何を言いたいのかは解らない、いや解りた くないが、しかしこうして海を見ていると――フーは顔をあげ、光に満ちた海をみていた、はるか南風の誘う、あの美しきアルゲーリャの青を。たまらなくな る。へん、とフーは年頃に似つかわしい、挑戦的で、そしてどこか照れたような、歯がゆそうな笑いを漏らした。
  相談は、フーの進学についてだった。さあ、ここからはみんなも知っていた歴史のおさらいだ。そう、この平等なる学術の聖地、誇り高きグラゴル中央魔術アカ デミーは、ついこの前まで血統のテストが必要だった。アルディールがエルデタを侵略し――わたしは右翼主義者だからあえてこういう言い方をしよう、君らの 信条と食い違ったなら申し訳ないが――優れた異人がこの国に流入して、はじめてアカデミーは血統テストを廃止したわけだ。しかし、そんな未来があるとは露 知らぬ奥さんにとっては、これは頭の痛い問題だった。なんせ風来坊の父と無学な漁村の女の血。魔法のどこに適性があるのか、素晴らしいとしか言いようのな い血統だろう? だがフーはあえて、あのアカデミーに進み、父の言葉通り勉学に勤しまんと決意していたのさ。それを血の一滴で阻まれるのは、誰にとっても 不幸だろう? 私がフーへの協力を約束すると、奥さんは笑ったさ、それはもう、海のように広々とした最高の笑い方だったね。そして、静かに涙を流しなが ら、私の見たことのない、翡翠の指輪を、薬指にはめたのさ。だから、これでベルドゥールの願いはみんな叶ったわけだ。

  おや、これで話が終わるだなんて、いくらなんでも尻切れトンボじゃないかって? 何、君はそんなのただの美談か自慢話じゃないか、と言わんばかりだね。そ うだね。我々人間は自分たちに関係のない物語には、どうしても関心は薄くなるものだから。それじゃあ、君たちとこの物語の関係を教えてあげよう。
  次の呪法学では絶対に余計な質問はするなよ? 実は私は、フェルバーント教授と南洋の旅に出る予定でね。君たちが夏休みを満喫しているのに倣って、我々教 授陣も素敵な休暇を味わおうという魂胆さ。で、その打ち合わせが授業後にあるのさ。おや、まだわからないのかい? 何人かは解ったみたいだね、君らは語学 には強いらしい。……さあ、これで授業は終わりだ。呪法学は二十分遅れからは遅刻だぞ? さあさあ、それが分ってるなら、今すぐ二十二番教場に走るんだ ね。あいつは今夏の宝物のことで頭が一杯だから、授業時間を遅刻者のために一分でも引き延ばすのは、絶対に御免こうむりたいはずさ。あいつって誰かって?  君らもよくご承知の彼さ。
 フェルバーント・パシオン。またの名 を、世界一の宝物愛好家の、最高の宝物、フー。

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